川中島の戦いで勝利したのは?上杉謙信?武田信玄?

川中島の戦いは、越後の龍「上杉謙信」と甲斐の虎「武田信玄」との5回に及ぶ戦いです。その川中島の戦いの中でも、4回目の戦いが最も激戦であったと言われています。

映画やドラマなどでも4回目の川中島の戦いを題材にしたものが多く、上杉謙信と武田信玄の一騎打ちが出てくるシーンもよく描かれます。

では、その川中島の戦い、上杉謙信と武田信玄のどちらの戦国大名が勝利したのでしょうか?調べて分かったことを、わたしの独断と偏見も交えて簡単にお伝えします。

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川中島の戦いは信濃の国で行われた

川中島の戦いとして有名な上杉軍と武田軍の戦い。この戦いは、信濃という国の川中島付近で行われました。現在の長野県付近になるのでしょうか。当時の信濃ぼ国は武田氏の侵攻を繰り返し受け、有力な国人衆は次々と武田軍に撃破吸収されていきます。

信濃で強い勢力を誇っていた村上氏は、一度は武田軍を撃退したものの限界を感じ、侵攻を繰り返す武田軍に対抗すため越後の上杉氏に援助を求めます。上杉軍は、武田氏の信濃侵攻を阻止すべく軍を起こします。

この村上氏救援をきっかけとして、上杉氏と武田氏が激しく争う川中島の戦いが繰り広げられることになりました。

第4次川中島の戦いは激戦

1561年、関東管領となった上杉謙信は信濃へ出兵します。上杉軍は妻女山、武田軍は茶臼山に布陣し、互いににらみ合いが始まります。その後、武田軍は陣を映し海津城に入りますが、膠着状態は続きます。

事態を動かしたのは武田軍でした。軍師山本勘助の提案で部隊を二手に分け、一方が妻女山の後方から奇襲し、もう一方が逃げてきた敵を迎え撃つという啄木鳥戦法(きつつきのせんぽう)でした。夜のうちに別動隊が出発し、上杉軍の後方に回り込み、奇襲をかけようとします。

一方、上杉軍は海津城から上がる炊煙がいつもより多いことに気づき、奇襲があることを察知します。そこで、その日の夜に妻女山を下山し、八幡原(はちまんがはら)に陣を布きます。武田軍本陣の目の前です。しかし、この時点では霧が濃く、武田軍は上杉軍が目前にいることに気が付きません。

夜明けの霧が晴れると同時に戦は始まります。驚いたのは武田軍でしょう。別動隊と戦っているはずの上杉軍が目の前にいるのですから。

上杉軍は、車懸かりの陣形で武田軍に襲い掛かります。武田軍は鶴翼の陣形で迎え撃ちます。前半戦は上杉軍が圧倒的に有利な状況であったとされています。武田軍は、軍師山本勘助、武田信繁をはじめ、多くの重臣が討たれました。

後半は、妻女山に向かった別動隊が上杉軍の後方から襲い掛かります。ここで戦況が変化します。武田軍が、上杉軍を前後から挟み込む形となり、形勢は逆転します。後半は武田軍優勢です。

上杉軍は撤退し、武田軍も撤退します。両軍合わせて7000人を超える死者が出る激戦でした。戦闘に参加した20%以上の人が亡くなったことになります。負傷者を含めると、とんでもない数になるようです。恐ろしい数です。戦国時代でも有数の激戦と位置付けられます。

この川中島の戦いは、決着がつかなかったという点では引き分けではないでしょうか。諸説あるようですが、両軍ともに大きなダメージを受けています。最終的に信濃地方は武田軍の支配力が強まっていきます。

川中島その後

5回に渡って繰り広げられた川中島の合戦ですが、以後は事情が変わってきます。武田信玄が先にこの世を去るのですが、その遺言で、遺言で「自分の亡き後は、越後の上杉謙信を頼るように。」と伝えています。どういうこと?激戦を繰り広げ、憎き相手のはずですが、どこかで互いの存在を認めていたのかもしれません。

武田軍は、武田信玄亡き後、織田軍との戦いに敗れます。長篠の戦いです。敗れた武田軍は、上杉軍に救援を頼んだとされています。上杉軍は武田軍の救援に向かいます。

下剋上の時代にあって、異彩を放つ川中島の戦いです。いつかこの古戦場跡を散策したいと考えています。

 

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